
2026.06.01
あなたがお墓参りを避けてしまう、本当の理由(65left)

最後にお墓参りをしたのは、いつですか。
思い出せますか。
三か月前でしょうか。
一年前でしょうか。
それとも——もっと前でしょうか。
「行かなければ」
そう思いながら、気づけば何年も経ってしまった。
そんな人も少なくありません。
忙しかったから。
遠かったから。
機会がなかったから。
理由はいくらでもあります。
だから私は、それを責めたいわけではありません。
ただ、一つだけ聞かせてください。
お墓は、誰のためにあるのでしょうか。
本当に、考えたことがありますか。
そんなことを考えていた五月の雨の日。
新聞を開いたとき、たった十七文字の俳句が目に飛び込んできました。
雨降れば母のゐしあの子供の日
しばらく、動けませんでした。
「母のゐしあの」
その言葉が胸に残ったのです。
母は、もういない。
けれど雨が降るたびに、「いた」という事実が静かによみがえる。
思い出そうとしているわけではない。
忘れていたわけでもない。
ただ、雨音の向こうから、ふっと帰ってくる。
それは後悔ではありません。
悲しみだけでもありません。
もっと深い何かです。
たぶん——力です。
人が生きるための力です。
お墓は、死者を閉じ込める場所ではありません。
そこは、「ここに確かに生きた人がいた」という事実に触れる場所です。
父がいた。
母がいた。
祖父母がいた。
そのまた前にも、名前も知らない誰かがいた。
その命が繋がって、いま、自分がここにいる。
当たり前のようでいて、私たちはその事実を忘れてしまいます。
人は、自分ひとりで生きていると思うと弱くなります。
孤独になります。
不安になります。
けれど、自分の後ろに無数の命が立っていることを思い出した瞬間、不思議なほど強くなれるのです。
お墓とは、その見えない命の列を思い出す場所です。
過去を振り返る場所ではありません。
未来へ進む力を受け取る場所なのです。
実際に、長い年月を経て墓前に立った方が涙を流される場面を、私たちは何度も見てきました。
「どうして今まで来なかったんだろう」
そうつぶやく方もいます。
けれど、その涙は弱さではありません。
それは、「ちゃんと繋がっていた」という確認です。
自分が一人ではなかったことへの安堵です。
面倒だから行かないのではない。
本当は、向き合うのが怖かったのかもしれません。
言えなかった言葉。
伝えられなかった感謝。
会いに行けなかった時間。
人はときに、それらから目を背けます。
けれど、お墓は責めません。
何年経っても責めません。
ただ、そこにあります。
静かに。
変わらず。
ずっと、そこにあります。
石には、不思議な力があります。
風雨にさらされても動かない。
季節が巡っても変わらない。
何十年という時間を超えて、そこにあり続ける。
その姿は、言葉以上に雄弁です。
「変わらないものがある」
そう教えてくれます。
私たち射場石利石材が守り続けているのも、単なる石ではありません。
帰る場所です。
人生に迷ったとき。
苦しいとき。
誰にも言えない悩みを抱えたとき。
ただ立つだけで、少しだけ心が軽くなる場所です。
「大丈夫だ」
と声なき声で語りかけてくれる場所です。
だから私たちは、墓石をつくっています。
石を売っているのではありません。
人が未来へ歩き出すための拠り所を守っているのです。
次にお墓参りをするとき。
ひとつだけ試してみてください。
手を合わせる前に、まず黙って立つのです。
何かを言おうとしなくていい。
報告しなくていい。
願い事もしなくていい。
ただ、そこに立つ。
静かな時間の中で、ふと胸に浮かぶものがあります。
言葉かもしれません。
景色かもしれません。
記憶かもしれません。
その瞬間に訪れるものこそ、あなたへの答えなのだと思います。
お墓。
それは亡き人のためだけにあるものではありません。
今日を生きる人のためにあるものです。
雨に濡れた墓石の前で、人は思い出します。
自分が、たくさんの命の先に立っていることを。
そして、これから誰かへ渡していく命の途中にいることを。
梅雨の雨が静かに土を濡らすこれからの季節。
あなたが大切な人のもとへ、もう一度、足を向けられますように。

射場石利石材
六代目当主 射場一之
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